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2009年11月12日 (木)

当たり前

こんにちは。岩元佳子です。

先日、眼科に持病の検診と眼鏡の新調のために行った時のこと。
レンズを合わせていたのですが、どうにもピントが合わず、
乱視を入れても、物が二重に見えるのです。
ドクターの診察を受けてびっくり。
上下斜視を指摘されました。

「右目で見たときと、左目で見たときと、
 見えてるものの高さが違って見えるでしょ。
 斜めに動きませんか?」とドクター。

「はい」と私。「…それが何か?」と頭の中で呟く。

えっ!?

みんな、右目で見たときと、左目で見たときの高さが同じなの?

私にとっては、右目だけで見たときの景色と、
左目だけで見たときの景色は
斜め上と斜め下にスライドして見えるのが当たり前でした。
子どものころからずっと。

右目と左目で違って見えることを、
「何でだろう?」と疑問に思ったことはあり、考えた末、
立体で物を見るために必要なことなんだろうと理解してました。
でも、それが、私に特徴的なことだとは、疑ったことさえありませんでした。

私にとっての「当たり前」が、他の人の「当たり前」と違っていることを知り、
驚くとともに、なんて人間は面白いんだと思いました。

文字通り、人によって物の見え方が違うんですから。
「哲学」の始まりってこんなことなのかしら。

「当たり前」を疑うこと、疑問に思うこと。
私はりんごが落ちても疑問に思わないけれど、ニュートンさんは疑問に思った。
物事の原理・法則・共通性の「当たり前」を探求するのが哲学する心かな。

人としてのルールの「当たり前」は、
挨拶をするという「当たり前」から、
人を殺してはいけないという「当たり前」までいろいろ。
それも文化や宗教によって、いろいろな当たり前があることでしょう。
国家の当たり前、地域の当たり前、組織の当たり前、家庭の当たり前。
他の世界を知らなければ、その「当たり前」に気づくことさえないのかもしれません。

個人にとっての「当たり前」を、ちょっと疑ってみましょう。

例えば、
帰宅したらすぐにお弁当箱を出して洗うものだという「当たり前」。
ところが子どもは、弁当箱を出しません。
どうしたら私の言うことを聞かせることができるかと躍起になります。

ここで、発想の転換。
はたしてこれは「当たり前」か?
現に彼は、毎日言っても、私と同じ「当たり前」を持っていないではないか。
このお弁当箱は帰宅したら出すものだという「当たり前」を棄ててみよう。
お弁当箱がでてなければ、他のお弁当箱を使えばイイじゃない。

で、私のお弁当箱に詰めました。

すると、彼は言われなくてもお弁当箱を出すようになりました。
出さなかった罰を与えたつもりは全く無かったのですが、
ピンクのお弁当箱が彼にとっては「当たり前」では無かったようです。

面白いことに「当たり前」を手放したことによって、
望んでいた状態が手に入ったのです。

「当たり前」には、原理・法則・共通性のあるものと、
人によって作られた「当たり前」があるようです。

不必要な「当たり前」は、イラショナルビリーフと呼ばれ、
無いほうが楽に生きられます。

ニュートンさんには、なれませんが、
自分にとっての「当たり前」を疑ってみようと思います。
景色が違って見えるかもしれません。

ビリーフを手放すコーチングは、BrightAssistにお問い合わせ下さい。
http://bright-assist.com/

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コメント

人の数だけ、価値観は違うので
当たり前って異なりますよね。

多数の意見が必ずしも当たり前とは
限りませんし。

少数の、個々人の価値観のなかの
当たり前は、他人に理解されにくいと思いました。

他人の当たり前には、耳を傾ける
「発想の転換」が必要なんだと気づきました。

ありがとうございます

投稿: やまつぁ~んっ | 2009年11月13日 (金) 10時06分

やまつぁ~んっ、ありがとうこざいます。
「他人の『当たり前』に耳を傾ける」
やまつぁ~んっの、積極的傾聴の視点に
人に対する愛情を感じます。

投稿: Iwamoto | 2009年11月16日 (月) 11時12分

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