子育て

2013年7月 5日 (金)

リアル中学生日記(10日間)

水曜日、中学の部活でテニスをしている息子のラケットが壊れた。
もともとフレームにヒビは入っていたのだけれど、
そことは別の場所が直角に凹んでいた。
強い力で何かの角にでもぶつけたのだろう。

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息子の説明では…

別のラケットで練習をしていて、ふとベンチを見ると、
そこに置いていたはずの予備のラケットが無くなっていた。
ベンチには空っぽのラケットケースがあるだけ。

ラケットケースを手に取ったとき、テニスコートのフェンスの向こう側のグランドに、
無残に壊れた自分のラケットが転がっているのが目に飛び込んできた。

いったい誰がやったのか、テニス部の仲間も誰も見てない。
顧問の先生が個別に情報収集しても何も出てこない。

外部からの侵入者というのも考えにくい。
休憩時間にみんなで水を飲みに行ってた時に折られたのだろう。

帰宅して、「ひどいよねぇ」と、ちょっと元気のない息子。

彼の分析によると、
「ボクは誰からもそんなことをされる覚えはないから、
ボクへの嫌がらせではないと思う。
たぶん『壊す』ってことそのものが目的だと思うから、
必ず誰かが見てるところで壊してるはず。」

なるほど、せっかくやるんだから、
見てる人が居ないとやりがいがないものね。

そんな話をしていると、家の電話が鳴った。
テニス部のお友達Aくんからだった。
「実は、オマエが帰った後、Bがみんなに『Cがやった』って言ってた」

やっぱり目撃者がいた。

BくんもCくんもテニス部で、その日、Cくんは塾で練習を早退していた。

つづけて目撃者Bくんは
『でもオレはCのことを先生に売ったりしないよ』
と言ってたそうだ。

電話をくれたAくんも
「オレが言ったっていうのは内緒にしておいて」

なんとも、中学生男子らしい義侠心。
Aくんも息子に言うべきかどうか葛藤したにちがいない。

その報告を受けた母は、
「どうする?このこと、先生に言っていい?」と息子に聞いてみた。
「ボクが直接聞いてみる。一日だけ待って。」
Cくんは息子のテニスのペア。
関係を壊したくないっていうのが最優先なんだ。

その夜、テニス部顧問の先生と、学年主任の先生が、
壊れたラケットを持って状況説明に来て下さった。
先生方は何も糸口が見つかってなかった。

「早退したCくんと、先ほど連絡が取れたのですが、
彼も知らないそうです。これで全員に聞いたのですが…。」

息子と目が合ったが、黙ってる。
これからの対応策について、先生と話しはじめたときに、
「先生、実は… さっき、テニス部のヤツから、
『CがやったってBが言ってた』って電話があった。
ボクが明日、Cに直接聞こうと思って黙ってたんだけど、
今、先生から、Cが『知らない』って言ったって聞いて…。」

「よく、言ってくれた。
それが本当かどうかも確かめてみないといけない。
もしも、それが間違った情報だったら、
オマエがCくんに聞くと気まずいことになるだろ?
誰が電話をくれたのか教えてくれないか?」

「それは言えない」

う~ん、中学生男子!!

もともと信頼している先生だったから、
息子はしばらく粘ったものの説得に応じた。

この件について、どんな対応を望むかを聞かれ、
「弁償は望まない。学校にも家庭にも、
壊した子を懲らしめてほしいのではなくて、教育して欲しい、
成長につながるように指導してほしい」と伝えた。

翌朝、息子の嘆きは違うところに向いていた。
「先生にチクらないのはわかるけど、
どうして、A以外のみんなはBが言ってたことを
ボクに教えてくれないんだろう。」

「みんな、いろいろ考えてると思うよ。誰のことも悪く思わないで。」
と送りしだした。

Cくんは、壊したことを知らないふりをしたことによって、
テニス部のみんなを巻き込むことになってしまったんだ。

2日目木曜日、事態は動かず。
Cくんは部活を休み、
先生の調査に対して、電話をくれたAくんも、
Cくんを庇う気持ちもあるので、あいまいに答え、
他の部員からもCくんかもしれないという報告も上がらず。

先生は
「今、Cくん本人に、やったんしゃないのかと訊くよりも、
子どもたちの方から声が上がるのを待ちたい。」と。

ただ、テニス部の仲間は、その日、息子には、
Bくんが目撃したことを教えてくれ、
息子の朝のもやもやはスッキリ。


3日目金曜日、動き始めた。
部長Dくんが先生に
「Cくんかもしれない。ボクたちで話し合いたい。」と。
おお、さすが部長Dくん。その日、肝心の目撃者Bくんは休み。

先生は
「子どもから自主的に声が上がって嬉しい。
彼らにひとまず任せたい」とのこと。

「先生にお任せします」と私。

4日目、5日目は土日とも雨で部活は中止。

6日目月曜日
部長Dくんと、目撃者Bくんが先生のところに行き、

「Cくんが壊しました。ボクたちが話して、謝らせる。
きっとCも反省してるから、先生はCくんを責めないでほしい。」

普段はやんちゃなBくんが、友達をかばう態度に先生も感激したそう。

7日目火曜日 動かず。

あんまり時間をかけすぎると、
罪悪感も、正義感も、なにもかもが薄れていくよなぁ。
期限をつけて対応してほしいと要望しようと思う。

8日目水曜日 一気に動く

下校途中に、Cくんが部長Dくんたちに付き添われて、
息子のところにやってきた。

「あれ、オレがやった。本当にごめん。」

この一言で、みんなの気持ちが救われた。

部長Dくんたちは、学校に戻り先生に報告し、
「Cは反省してるから、家庭連絡はしないでほしい」と嘆願。

美しい友情だね。

9日目木曜日
昨日、生徒から報告を受けた先生、この日、Cくんの特別指導。

「どうした?なにかイライラすることでもあるのか?」と
寄り添いつつ、素直な心を引き出していった。

「夜、家に電話するから、それまでに、
ちゃんと自分でお父さん、お母さんに言え」

その夜、Cくんのご両親から電話をいただいた。
一つ一つの言葉がとても誠実でいらっしゃって、
その分、お辛いだろうなぁ、苦しいだろうなぁ。

息子も「ボクはもういいと思ってるから、Cを叱らないでください。」って。

息子は、数日前Cくんとラケットのことを話したことを後悔していた。
Cくんに、しらばくれられたからではない。
「ボクが聞いたから、Cに嘘をつかせてしまった」と。

10日目金曜日
Cくん本人とご両親にお会いした。
丁寧に謝罪いただき、こちらの言いたいことはお伝えし、
それでシャンシャン。

なんで、壊したのか理由はわからない。
たぶん、本人にもはっきりとは分からないんだろう。
たまたまそこにラケットがあったから、他の子がコンコンぶつけて遊んでいた。
自分も手にとってコンコンコンコン…。
その時ふと「ワイルドで破天荒なオレ」を演じたくなったのかもしれない。

Cくんにとってはただのひびの入ったラケットかもしれない。
私にとっては、最初に買ってあげたラケット。
受験生の兄のストレス解消に付き合って、
夜の公園で兄弟ラリーをしてた想い出もある。
骨の折れたビニール傘を壊すのとは違うんだよ。
それはわかってほしいと思った。

想い出は私の心の中にある。
ラケットはもういい。

このラケットの一件、子どもたちのチカラで一番いい解決ができたと思う。
子どもたちはいろいろ考えて、より良い行動をした。
先生も勉強になったとおっしゃっていた。
そして、私たち親も、どうすればいいのかを考えさせられた。

私が望んだ「成長につながる指導」は、
図らずも大人たちの成長ももたらした。

こうなると、壊れたラケットがハート型に見えてくる。

その次の週末、テニスの区大会団体戦。
息子とCくんのペアも勝ち進み、なんと、団体優勝!!

できすぎだぜ。素敵すぎる。リアル中学生日記だ。

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2013年2月19日 (火)

やさしい虐待

「やさしい虐待」(長谷川博一氏)というのがあるそうです。

子どもにとってプラスに思える教育や躾(しつけ)に見えても、
ずっと押しつけ続けていると、子どもをがんじがらめにして身動きがとれなくなり、
いわゆる虐待と同じ様に心を蝕んでいくんだって。
それが「やさしい虐待」。

「やさしい虐待」は実母によるものが一番多く、そして深刻。

あらら、私もやっちゃったかも。

子を思う優しい心からの躾がエスカレートしたものだから「やさしい虐待」。
この子のために、ちゃんと躾なきゃという、本来はやさしい気持ちがベースにある。

「虐待」って殴ったり蹴ったり、暴言など、
直接子どもを傷つけるものだと思ってた。

将来に後遺症を残す危険性のある環境や、
支配-被支配の関係が強い環境にさらすことが虐待だから、
目に見えるものも、見えないものもある。

その「やさしい虐待」を受けて苦しんでいる人の中には、
社会性・コミュニケーション・予測想像などが苦手という
先天的な特徴を持った人(自閉症スペクトラム)が多くみられるそうです。

常識ある親としては、我が子のすることが周りとズレてたら
「わがまま言わないの!」「『ごめんなさい』って言いなさい」
「お友達におもちゃを貸してあげなさい」とか、
「1人で勝手なことしちゃだめ」とか、それは言うよね。
禁止・命令のシャワーになっちゃう。

人一倍躾に厳しくなって、それでも聞かないので
だんだんどんどんもっともっと厳しくなって
気づかないうちにその子にとって躾の枠を超えていくそうです。
母も苦しいんだ、辛いんだ。

厳しすぎる躾は、親の想いとは裏腹に、
子どもの問題行動に改善はもたらさない。
むしろこじれる。

親の意図しないところで、存在を否定するようなメッセージが
子どもに伝わっていくんだろうなぁ…。

見える虐待でも、見えない虐待でも
心に深い傷を受け、心を蝕まれた子どもは、
ある日突然タガが外れる。
他者に攻撃的になるか、自分を傷つける(自傷・自殺)か。
どっちにしても破滅へと向かうような自己否定。

なんて悲しいことだろう。
せっかく生んだ大切な魂の尊厳を、
親自身がそうと気づかずに踏みにじってるなんて。
厳しい躾はだれもHappyにならない。

どうしたらいいんだろう。

虐待を受けた子どもを守ることとと同時に、
加害者である親を守ることも大切なこと。
親に対するフォローが必要だと思う。
子どもを愛したいはずだもの。

私も、愛する息子に対して「やさしい虐待」をしていたかも。
私には、人に迷惑を掛けてはいけないという強い縛りがあったから。

コーチングに出会えてよかったと思う。
いいところに目を向けることや、ポジティブな言葉がけ、
大切に思っているということが伝わるように伝えること、
自分にも子どもにも他人にも肯定感をもてたこと、
人生を信じる力がついたこと‥など

傷ついた子どもに対してできることは、まず聴くこと。
聴いてくれる人がいるだけで、将来が変わる。
じっくり考えながら人に言葉で伝えるという経験を重ねていくことが
歪んでしまった脳機能の回復になるそうです。

じっくり考えながら言葉で伝える、これもまたコーチングの手法。

虐待の連鎖を防ぐには、
子どものころに理解者が居たかどうかと、
事実を正しく認識していたかどうかが大きいそうです。
自分が悪い子だから叩かれたのではないんだと分かること。

今の人口比は子ども1人に対して大人6人
私たちが子どもだった1970年代は子ども1:大人3
周りの大人の目が多くて、子どもにとっても、子育て中の親にとっても、
昔よりずっと窮屈なんだよね。
期待・支配・管理でギュウギュウなのかも。

周りの大人ができること
heart子育てしているお母さんを追い詰めない
heart孤立させない
適度に声を掛けるけど、モラルを押し付けないことかな。

 
 
  
大人の期待通りに子どもを変えられはしない。

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2010年3月30日 (火)

子ども手当てよりも

親に「死ね」「殺すぞ」と言われて育っている子。
親に暴力を受けている子。
親の虐待で第4の発達障害を抱える子。
一日一食給食だけの子。

愛される事を知らずに育つことは恐ろしさがある。
愛されたことがないと愛する気持ちが育たない。
幼子は愛される事を求めて求めて求める。
求めても満たされず、
親から「死ね」「殺す」と言われ、罵倒され、殴られ育ったなら、
正当な理由もなく人を蹴飛ばして愉快そうにしているような
無慈悲な子になっていく。

愛情を知っているヤンキーと
愛されたことないヤンキーは根本的に違う。

それでも彼らは親から愛される事を求めてる。

一方でその親たちも高い確率で、同じような育ち方をしている。
そいいう育て方しか知らないからこうなった。

この連鎖をどうしたら断ち切れるのか。

誰かから愛されることと、愛されていることに気づくこと、
そして誰かを愛すること。
ままならない中にいても、少しの勇気を出せば
自分の行動は選べるということを知ること。

親が学校なんか行かなくていいと言って、朝、寝てても、
自分の意思で行くことができるんだよ。
ひどい親の元に産まれた不幸を嘆くなら、
自立して家を出ることもできるんだよ。
自分が本気で望みさえすれば、
どうやってでも勉強をすることができるんだよ。

家庭が家庭としての機能が無いなら、
幼い彼らを負の連鎖から救えるのは地域と小中学校しかない。

社会の中のごく一部の話に見るかもしれないけれど、
自分に全く関係の無い世界の話ではない。
放置しておくと、
ジワジワと教育の現場に混乱を招き、学校教育の質を下げ、
大げさに言えば国民の質を下げる。

子ども手当てを支給したところで、こんな家庭では親のパチンコ代になるのがオチ。
私も、子ども手当てをいただいたら、子どものためにと思いつつも、
現実には日々の生活費に使ってしまうだろう。
それならば、その財源を小中学校の教員の増員や育成にまわしてほしいて思う。
その方が確実に子どもたちのためになる。

子どもを愛する力のある先生、
人生は自分で拓くことができると教えてくれる先生は素晴らしい。

いろいろ批判の対象になることが多いけれど、
子どもが好きでなければ教師はできないと思う。

少なくとも私がコーチングで関わってきた先生方は、全員、人間として素敵な方ばかり。
「教師も人間だから、疲弊してしまうと愛情を注ぐ余裕は無くなってしまうんです。」
ポロリとでた言葉がとても切実だった。

春から晴れて学校の先生となる若者達も含めて、
全ての先生方が持てる力を発揮して、よりよい教育のできる仕組みが整う事を願います。

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2010年3月19日 (金)

感動のワールドカフェ ~拓かれる道

こんにちは、ブライトアシストの岩元佳子です。
先月の「気づきと築きのワールドカフェ」の模様です。

ワールドカフェの基本形は、
3ラウンドを通して1つの問いについて対話を重ねていくのですが、
今回はバリエーションパターンで、ラウンドごとに問いを変えました。

私の子育てのワークショップは、
過去から現在そして未来に向かって地下水脈のように流れている、
自分が大切にしているものの探求をすることで、
より良く自分らしい子育てのスタイルを気づいて築くことを目的にしています。

今回のワールドカフェは、そのワークショップの進化形。
お子さんが生まれたときの思い、
今のお子さんに対しての思い、
お子さんの将来に対する思い
3つの「大切な問い」のフレームに練り上げて、
みなさんの思いを語っていただきました。

各テーブルの上には模造紙。
模造紙に問いのカップソーサーを置き、
自由に印象に残った言葉や、いたずら書きをしながら
問いに集中して対話を進めます。

各テーブルにはテーブルをファシリテーとするテーブルホスト、
今回は「看板娘」さんと名づけました。
看板娘さんたちが素敵なお母さまばかりで、
どのテーブルもとても活気のある話合いでした。

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3つの問いを重ねていくうちに、
会場も模造紙も、愛の言葉で満たされてきて、
私も胸が熱くなりました。

大好き
愛してる
笑顔
感謝
宝物
ありがとう
喜び
楽しみ
あなたに逢えてよかった
幸せ
出会い

お子さんはもちろんのこと、ご自分の両親、夫や妻への愛。
ここで初めて話した方々への一期一会の気持ち。
子どもにが私を母親にしてくれたという思い、
だからこそ自分もよりよく在ろうとする愛のシナジー。

ワールドカフェで対話を重ねていくうちに、
それぞれの愛情の形と、普遍的な家族の愛情が、
目に見えるものとして浮かびあがってきました。

私達、親は、みんな頑張ってる。
私達がhappyでないと子どもはhappyになれない。
私達、こんなにhappyだって思えることがhappyへの近道。

子育てワールドカフェは、ブライトアシストまで。

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2010年1月21日 (木)

勇気と自信

こんにちは。ブライトアシストの岩元佳子です。

勇気とは、
「普通の人が不安、恐れを懐いたり、
 躊躇・恥ずかしさを感じたりする所を屈しないで、
 自分が正しいと思ったとおりやってのけようという
 積極的な気力。(新明解国語辞典)」

自信とは
「そのことを間違いなくうまくやることができるという自己評価」

自分には勇気が無い、勇気があれば…と思うことがあります。
とくに苦手な営業をするとき。
勇気が出ないのは、自信がないから。
自信が無いのは…。

息子が小学1年生の頃、
子どもを叱ってばかりいる私の胸に突き刺さる言葉がありました。

その日も、何がしたいんだかはっきりしない息子に、
イラっときて「どっちなの?ちゃんと答えて。」と詰め寄ってました。

すると、
「ボクは叱られてばかりだから、『自信』が無い」と息子。

『自信』なんてボキャこの子にあったかしらと思って、
「『自信』ってどういう意味なの?」って訊いたら、

「自分を信じる勇気がないんだ」

その言葉を聞いて涙が出ました。
7歳の子にこんなことを言わせるぐらい、
私は子どもを叱ってました。

「自信を持て」「勇気を出せ」なんて
口で教えてできるようになることではないですよね。
自己肯定感から生まれてくるものです。
子どもの「自信」と「勇気」は親が育てるものですね。

私は彼を信じる勇気を持ち、
「心配」するのではなく「信頼」すると心に決め、
あれから8年。
中学三年になった息子はどうなんだろう。
try&errorを繰り返し、過信と不安を経験し
着実に大人になってきてるなぁ。

しかし、名言!
「自信とは自分を信じる勇気」

哲学的には勇気とは、
「恐るべきものと恐るべからざるものとを識別することなり」
恐れなくてよいことを「恐れなくていい」と決めることができることが勇気。

私の「自信」と「勇気」はどうしたら湧いてくるでしょう。

恐れないで勇気を持って自分を信じよう。
そしたら、もっと大きな勇気がわいてくる。

try!try!try!

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2009年12月 1日 (火)

母と受験生のコーチング ~家庭学習編

私の眼から見た中学三年生の長男は、とてもお気楽。
受験を数ヵ月後に控えているというのに、呑気に構えている。

私が感じる二つの「もったいない」
①もっとやれば、もっとできるのにもったいない。
②通信教育 添削問題だけしかやらないのがもったいない。

①の「もったいない」は、彼の脳ミソの体力不足に起因するもの。
スポーツと同じで、毎日やっていくうちに脳ミソも体力がついてくるもので、
中学三年になってから、それ以前とは格段に脳ミソに体力がついたと思う。
でもやはり、試験前にバラエティ番組をのんびり見て笑ってるのを見ると、
「もったいない」という思いがフツフツと湧いてくる。

もっと声高になってしまいそうなのが通信教育の「もったいない!!」
「キミが『これをやる』と自分で言ったから、103800円投資したんでしょうが。
それを毎月期限ギリギリで、練習問題を解きもせず、
添削問題を2~3日でパパッと仕上げて出すだけなんてもったいない!!
お金掛けてるんだから、ちゃんと元を取ってちょうだい。」
と、我が子の成長を願う気持ち+家計を握る者としての切実な思いも絡んでくる。
こういう思いをさすがに口には出さないまでも、
「もったいない」の思いはグラグラと沸いてます。

私は、子どもに通信教育をさせることに不向きな親かもしれない。
この私の気持ち、どう折り合いをつければいいのか考えました。

きっかけは、通信教育の目標提出日の前日、
「わかってる。あとでする」という息子に
「もうあとが無いよ」と私が言ったことに、
「そんなこと言って欲しくない」と、彼がいつになく神経質な反応をしたこと。

そういえばその2,3日前にも同じようなことがありました。
進路希望調査票に、志望校を記入した時、
「第二希望、そこでいいんだね」というわたしの言葉に
「そういう言い方しないで」と怒りを顕にしました。

この二つのことに共通する彼の苛立ちの原因を考えました。
キーワードは「不安」。
「不安」にさらされて、過剰反応して怒るようです。
通信教育の提出日まで「あとが無い」という言葉を、
漠然とした不安を感じている受験までの日にちに「あとが無い」ことに重ね、
「第二希望、そこでいいんだね」という言葉が、
自らの迷いから「だめなんじゃないの?」といわれているように聞こえたみたい。

自分で決めるこにとは「自由」と「責任」があります。
「自由」と表裏一体の「責任」に気付いた時、
まだ大人になりきっていない思春期の子は、
確信をもてないことに対して「不安」を強く感じ、
その、バランスを保つために「怒る」のでしょう。

私は、それくらいのことは当然、
自分で出来て自分で決められるだろうと思ってました。
彼が子どもだということを忘れてしまうぐらい、彼は大人びています。

しかし発育途上の15歳でした。

子どもはいつもその年齢なりに完成形であるということを、
私は、ついつい忘れてしまって、その上その上と求めてしまいます。

親はそんなつもり無くても、いつの間にか、
子どもを不安に駆り立てることで、
行動を促進させようとしているのかもしれません。
子どもが呑気そうに見えるときはなおさらです。

猛獣に追いかけられてゴールを目指した方が、絶対速く走れるでしょう。
でも、それは、彼の幸せではない。
自分の目標や夢を追いかけてゴールを目指した方が、
達成感があり、充実してるに違いありません。

親はたとえ無意識にでも、子どもの行く道に猛獣を放ってはならない。

コーチとしてクライアントを不安にさせるようなことは絶対にしないのに、
親として我が子と接する時には、知らず知らずにそんなことをしてました。

これは私の煩悩のせい。
煩悩とは身心を乱し悩ませ智慧を妨げる心の働き。
子煩悩とは能く言ったものです。

子どもがゴールに向かって走るために必要なものは?
あくまでも、走るのは彼自身。
ペースメーカー、給水、応援
ゴールしたら得られるであろう達成感のイメージ。
それらを提供するのが私の役目かな。

コーチのスタンスで、「もったいない」について再考してみました。
そもそも「もったいない」という発想がNG。
「やれるのにしてない」「給料泥棒」と言われて、やる気の出る社員がいるか。

家庭のゼネラルマネージャーとして私に足りなかったのは、
PDCAサイクル(plan-do-check-actのcycle)のチェック。
彼には『やる』という気持ちはある。
できるシステムを一緒に考えることで、
業務改善もとい学習改善を図るのが私の仕事。
同時に日常会話の中でのゴールのビジュアライズと、
さりげない承認(成果・行動を認める、褒める、アクノリッジ)。

私のコーチとしてのミッションは
「コミュニケーションを通じて、人と組織の幸せな成功をアシストする」

家庭でも、そうありたいと思います。

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2009年11月12日 (木)

当たり前

こんにちは。岩元佳子です。

先日、眼科に持病の検診と眼鏡の新調のために行った時のこと。
レンズを合わせていたのですが、どうにもピントが合わず、
乱視を入れても、物が二重に見えるのです。
ドクターの診察を受けてびっくり。
上下斜視を指摘されました。

「右目で見たときと、左目で見たときと、
 見えてるものの高さが違って見えるでしょ。
 斜めに動きませんか?」とドクター。

「はい」と私。「…それが何か?」と頭の中で呟く。

えっ!?

みんな、右目で見たときと、左目で見たときの高さが同じなの?

私にとっては、右目だけで見たときの景色と、
左目だけで見たときの景色は
斜め上と斜め下にスライドして見えるのが当たり前でした。
子どものころからずっと。

右目と左目で違って見えることを、
「何でだろう?」と疑問に思ったことはあり、考えた末、
立体で物を見るために必要なことなんだろうと理解してました。
でも、それが、私に特徴的なことだとは、疑ったことさえありませんでした。

私にとっての「当たり前」が、他の人の「当たり前」と違っていることを知り、
驚くとともに、なんて人間は面白いんだと思いました。

文字通り、人によって物の見え方が違うんですから。
「哲学」の始まりってこんなことなのかしら。

「当たり前」を疑うこと、疑問に思うこと。
私はりんごが落ちても疑問に思わないけれど、ニュートンさんは疑問に思った。
物事の原理・法則・共通性の「当たり前」を探求するのが哲学する心かな。

人としてのルールの「当たり前」は、
挨拶をするという「当たり前」から、
人を殺してはいけないという「当たり前」までいろいろ。
それも文化や宗教によって、いろいろな当たり前があることでしょう。
国家の当たり前、地域の当たり前、組織の当たり前、家庭の当たり前。
他の世界を知らなければ、その「当たり前」に気づくことさえないのかもしれません。

個人にとっての「当たり前」を、ちょっと疑ってみましょう。

例えば、
帰宅したらすぐにお弁当箱を出して洗うものだという「当たり前」。
ところが子どもは、弁当箱を出しません。
どうしたら私の言うことを聞かせることができるかと躍起になります。

ここで、発想の転換。
はたしてこれは「当たり前」か?
現に彼は、毎日言っても、私と同じ「当たり前」を持っていないではないか。
このお弁当箱は帰宅したら出すものだという「当たり前」を棄ててみよう。
お弁当箱がでてなければ、他のお弁当箱を使えばイイじゃない。

で、私のお弁当箱に詰めました。

すると、彼は言われなくてもお弁当箱を出すようになりました。
出さなかった罰を与えたつもりは全く無かったのですが、
ピンクのお弁当箱が彼にとっては「当たり前」では無かったようです。

面白いことに「当たり前」を手放したことによって、
望んでいた状態が手に入ったのです。

「当たり前」には、原理・法則・共通性のあるものと、
人によって作られた「当たり前」があるようです。

不必要な「当たり前」は、イラショナルビリーフと呼ばれ、
無いほうが楽に生きられます。

ニュートンさんには、なれませんが、
自分にとっての「当たり前」を疑ってみようと思います。
景色が違って見えるかもしれません。

ビリーフを手放すコーチングは、BrightAssistにお問い合わせ下さい。
http://bright-assist.com/

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2009年10月17日 (土)

言葉のキャッチボール

こんにちは。BrightAssistの岩元佳子です。

前回に書いた、ポルトガル語で話すと気持ちが解放されるという話を
アメリカに留学経験のある友達にして、、
英語で話してると解放されるのとか聞いてみました。
すると、彼女がまた面白い話を聞かせてくれました。

アメリカに居た頃は、英語で話すと解放されるというよりも、
アメリカ人と会話をすること、コミュニケーションをとることそのものが
楽しくて楽しくて仕方が無かった。

…というんです。

また、私、考えました。

母国語以外の言語を習得する過程は、子どもの発達と似てる。
話をするのが楽しくて楽しくて…子どもってそうだったんだ。
言いたい事が通じて、言葉が返ってくる、
その言葉のキャッチボールそのものを子どもは楽しみたかったんだ。

私の子どもたちが今より少し幼い頃は
もういい加減にして頂戴ってぐらい話しかけてきてました。
そういえば、子どもとの会話の中でも多いのは「質問」でした。
必ずしも好奇心・探究心からではなくて、
「質問」をすれば、会話は一方通行ではなく、
かならず「答え」が返ってきて双方向になるからでした。
子ども達はそれを「楽しくて楽しくて仕方がない」と感じていたんだ。

幼い頃から繰り返される、「なんで?」「どうして?」に
私は答え続けました。知的好奇心を満たしてやろうと思って。
しかし、彼らが満たして欲しかったのは知的好奇心ではなくて、
親子の関わりだったみたいです。
だから、同じことを何度も聞いたり、
こちらが質問に答えている最中に、もう次のことを考えてたんですね。
キャッチボールを続けたくて。

「なんで」「どうして」の時期を過ぎてしまってから、それに気が付きました。
未熟な私は、子どもに話しかけられることで、
子ども以外の人との会話や、自分の頭の中の思考が途絶えることがイヤでした。
特に子どもが乳飲み子の頃、母性本能が強く働いていて、
私の子どもに対する受容器は、
たとえ睡眠中でも一回線は常にオンライン状態で、、
子どもを無視したくてもできなくて、
まるで脳みそに直接話しかけられているようで、
話しかけられることが苦痛に感じることさえもありました。

今も私はそれほど成長していないのかなぁ。

ただ、今は、子どもたちも大きくなり、
ちょっと待って、これが終わってからにしてという
私の要望を、彼らが受け入れてくれているだけかもしれない。

人とのコミュニケーションを楽しいと感じ、
何事にとらわれることなくいる幼い魂は、
毎日の会話の中で、
いろいろな言葉を覚え、常識を覚え、感情を抱き、感情を制御し、
人として成長していきます。

人を育てるのも楽しませるのも、そして、苦しめるのも人ですね。

コミュニケーションコーチングはブライトアシストまで。

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2009年7月13日 (月)

学習のスタイル

こんにちは、ブライトアシストの岩元佳子です。

先日、高松のみくに幼稚園でのコーチングセミナーで、
子どもからもらったもの50項目リストアップして、
そのうち「コレ」と思う一つを選ぶというワークをしました。

その発見のプロセスは三者三様十人十色。
プレゼントされた物から書き始めた人もいれば、
愛情・幸福・忍耐・寛容など二文字の言葉から書く人、
すぺて文章で50項目書いた人、
場面を思い浮かべた人、
言われた言葉を思い浮かべた人。
面白いところでは、「嘔吐下痢のウイルス」というのも。

そして絞り込んだ一つも、
「幸せ」という大きな感覚的なもの
「言葉」という聴覚・言語感覚的なもの
「向上心」「考えること」という内観的なもの
「母」「家族」という概念的なもの
さまざまでした。

ちなみに私は「自己肯定感」。
こんなに未熟な人間であるのに、
幼い日の子どもたちから全身全霊で愛情を贈ってもらい、
私は愛されるに足る存在なのだと充分に感じさせてくれました。

そしてもう一つあげるならば、
子育てを通じて出会った私の大切なお友達。
出会いに感謝しています。

50リストアップすることも、
それを一つに絞り込むことも、
そこまでいたるプロセスも、
どれが正しいというものではなく、
ひとりひとり感じ方考え方の違いがあるから、
人間は面白いとつくづく感じました。

例えば一つのことを学ぶのに、
ある人は書いて覚え、
ある人は聞いて覚え、
ある人は声に出して覚え
またある人は語呂合わせで覚え…など、
人それぞれ効率のあがる学習スタイルがあります。
大きく聴覚系・触覚系・視覚系・言語感覚系に分けられ、
それらの複合の場合も多くあります。

コーチングの時には、
クライアントの学習スタイルを知り
効率的なアプローチを共に考えていきます。

子どももその子によって効率的な学習スタイルが異なります。
教える側、指導する側は、
自分の成功した方法、誰かの成功した方法ではなくて、
その子に合った学習法をみつけたいものです。

それを知らなかった頃、
勉強は書いて覚えるものと信じていた私は、
子どもが鉛筆も持たずに勉強している様を見て、
横着をしていると決め付けて叱ってました。
彼の学習スタイルはマルチ型で、
その時々で、自分に合った最善の方法を選択していたようです。

言語感覚系である私は、
こうしてブログを書きながら学習しています。

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2009年7月11日 (土)

みくに幼稚園ハピネスファミリー講座Ⅱ IN高松

こんにちは、BrightAssistの岩元佳子です。

高松市のみくに幼稚園で、お母さまを対象にした、
コーチングのワークショップの第二回目を開きました。

私の住む広島は、朝からあいにくの雨。
家を出た時はそうでもなかったのですが、
私が岡山に着いた頃には、
広島には大雨洪水警報が発令され、
子どもの通う学校が休校になったと連絡が入りました。
瀬戸大橋の向こう側には晴れ間も見えていて、
日本も案外広いんだなぁと思いながら四国に渡りました。

第一回目は「聴く」スキルを身に着けながら、
同時に自分の価値観を探求するプログラムでした。
第二回目は「質問」のスキルを身につけながら、
同時にそれぞれの「理想の母親像」を引き出すプログラム。

前回、自分の深層心理にせまるような、ある宿題をお出ししていました。
みくに幼稚園のママさんたちは本当に素晴らしいんです。
参加して下さった皆さん、全員が、
深く自己洞察されていること。
しかも、それを、「物語」として語ることができること。
さらに、個々のお話を、共有して「傾聴」することのできること。

考えること、話すこと、聞くことの、
どれもがだれにも備わっているという、
特長を生かしたワークショップとなりました。
みくに幼稚園が、それだけ、安心感のある場であるということでしょう。

予定していたワークが入りきらないくらい、
中身の濃い時間となりました。

後半は大急ぎのワークでしたが、
夏休みに向けて、一人ひとりの参加者の方々が
「私はこうありたい」と思う、理想のお母さんに
一歩でも近づけるようにと願いながら終了しました。

その頃には、広島の雷雨が高松に来ていました。

みくに幼稚園での
「ハピネスファミリー コーチング講座Ⅲ」次回最終回、9/18(金)10時~です。

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